Vol5.「内側の声に耳を傾ける」 担当:渥美 (2018年5月21日)

環境適応は本当に必要なのか?

 

本を買うとき、私はもっぱらAmazonを使うのですが、それでもふと本屋に立ち寄ることがよくあります。

 

そうすると、今、人の関心が向いている先がどこにあるのか、本屋に並ぶ書籍を通じて感じることができます。

 

とりわけ仕事柄、経営やリーダーシップというジャンルによく足を運びますが、最近、明確に本棚に並ぶテーマが変わってきていることを感じます。

 

例えば、

 

『弱いリーダーが最強のチームをつくる』

 

『完璧なリーダーは、もういらない』 

 

こういったタイトルの本は、一昔前はありませんでした。

 

リーダーに完璧さや強さ、カリスマ性を求めていた時代が終わり、このような新しいコンセプトのリーダーシップのタイトルの書籍が置かれることに、時代の変化を感じます。

 

新しいコンセプトのものが徐々に市民権を得て、正解として扱われるようになる。

 

そして、これまで市民権を得ていたコンセプトは、徐々に古いものとして扱われ、不正解になっていく。

 

サービスや商品においても、それが世の常であると思います。

 

そのため、生き残り続けるには、環境変化に適応する、時代変化に適応することが必要と言われてきました。

 

しかし、最近、ここには真実はないのではないかと思います。

 

なぜかというと、環境変化に適応する、時代変化に適応する、ということは、常に環境や時代が先にあって、そこを追いかける自分は後にくるということを表しているからです。

 

つまり、生き続けたいのであれば人は環境に適応すべきであり、極端な言い方をすれば、人は環境やシステムの奴隷とならなければ生存していけない、ということを示唆しているように思います。

 

事業という単位で言えば、世の中の動向に合わせてサービスを変えていく。

 

組織マネジメントという単位で言えば、所属する組織の価値観に自分を適応させていく。

 

本当にそれは人が望む生き方なのでしょうか。

 

私たちは常に周囲の動向に目を光らせ、それに合った自分に作り変えていく。

 

何のために、そうするのでしょうか。

 

そこにあるのは、集団システムから弾かれないという安心感でしかなく、純粋に自分の命を生きるという喜びはないように思います。

 

そして変化の大元を辿れば、いつの時代も、リーダーと呼ばれた人たちは、環境に適応してきた人たちではなく、自らが変化の源となってその環境をつくってきた人たちだと思うのです。

 

では、それは一部の人のみにしか許されないことなのでしょうか。

 

その他大勢の人たちは、自分ではない他の誰かの軸に合わせ、追随していかなければ生き残り続けることはできないのでしょうか。

 

■ ないがしろにされてきた内側の世界

 

近年、「管理者・リーダーの仕事に喜びを感じられない」という方々が、これまで以上に増えてきています。

 

様々な要因が複雑に絡み合っているため、一つの要因に絞ることはできませんが、あえて一つを挙げるとすれば、自分の内側がないがしろにされてしまっていることの限界にきているのではないかと思います。

 

管理者・リーダーという存在は、他者に認められることで初めてその存在が許される、という常識があります。

 

そのため、管理者・リーダーが陥ってしまう最大の罠は、きっとこういうことをしたら上司に認められるだろう、部下が喜んでくれるだろうという他者評価を優先し、そこに自分の価値を委ねてしまうところにあります。

 

たしかにそこには、純粋に貢献したいという思いもあると思います。

 

しかし、多くの場合、周囲に自分の存在を認めてもらいたいというエゴに支配されがちです。

 

どういう方法で自分の存在を認めさせるかは人それぞれです。

 

業績という成果を出すことで認めてもらう、部下の声に親身になって耳を傾けることで認めてもらう、何かこれまでにない新しい成果を出すことで認めてもらう。

 

いずれも建前としては、組織のため、部下のためにと言いながらも、本当のところは自分の居場所を守ること、自分を証明することが裏の目的あることが少なくありません。

 

それが悪いことだとは思いません。私もそういう時期がありましたし、今もあります。

 

むしろ、そういう体験があったからこそ、どれだけエゴを満たそうとしても、本当の喜びや充足はないことに気づくことができ、エゴに振り回されることもなくなります。

 

では、エゴに振り回されないためにはどうすればよいのでしょうか。

 

そのためには、まず、そういったエゴが自分にもあるんだ、ということに気づくことではないかと思います。

 

つまり、人のためにと言いながらも、本当はどこまでも自分のためにやっていることを認めること、それが最初の一歩ではないかと思います。

 

そして、そのエゴを決して悪いものとして扱わないこと。

 

エゴは人間にとって必要な欲であり、エネルギーです。悪いものとして扱えば扱うほど、人間臭い自分に蓋をして、聖人君主やできる人のフリをせざるを得なくなります。

 

管理者・リーダーは、決して立派な人になる必要もなければ、素晴らしい人になる必要もない、それは結果論であり、それを目指す必要など何もない、と私は思います。

 

そんなことよりも、本当はただ認められたいだけなんだ、自分の居場所がほしいんだ、自分の力を証明したいんだ、あいつには負けたくないんだ、本当は自分に自信がないんだ、といった自分の弱さや繊細さと向き合っていくことの方がよっぽど必要なことだと思います。

 

そして、そういった生々しいものと向き合えば向き合うほど、自分は、本当はとてもちっぽけで孤独な存在であることを突き付けられます。

 

同時に、そんな孤独から目を背けるために、ないことをあるかのように表現している自分がいることに気づきます。

 

それでも、そんな嘘をついている自分に対し、「これが本当にしたいことなの?」「これが本当に望む自分なの?」ともう一人の自分が違和感を投げかけ続けます。

 

もちろん、そんな違和感もないことにして押し殺すこともできます。

 

それでも、演じれば演じるほど、自分の内側は枯渇し、カラカラと音を立て、その違和感は前よりもさらに大きな音を響かせるようになります。

 

それぐらい、もう人は内側にある声に耳を塞ぐことができなくなっています。

 

本当はボロボロに傷ついていることに気づいてほしいと悲鳴を上げている。

 

本当はあるものを表現することを許してほしいと嘆いている。

 

そういった、ないがしろにされてきた内側の声にそろそろ耳を傾けるタイミングにきているのではないかと思います。

 

■ 本当に表現したい何かは内側にある

 

映画監督である紀里谷和明氏はあるインタビューでこのように言っています。

 

「例えば、モノ作りやっている人は、大体最初に誰かの作品を観ているわけですよ。

 

『すげーな、こんなことやりてーな、かっこいいなー、素晴らしいな』と思って仕事を始める。

 

しかし、それがどんどん食べるためだとか、次の仕事をもらうためだとか、自分でも気が付かないうちに自分が好きでもないものも作っていたりするわけです。

 

僕でさえ、『ここの部分はこうした方が良いんじゃない』とか、『そっちの方が売れますよ』とか言われることがありますよ。

 

それは100%無視する事もないし、なるべく多くの人に伝わった方が良いに決まってます。

 

しかし大前提として、『僕は何を作りたかったのか』がないといけない。

 

映画監督に限らず、何かが内側にない限り、アウトプットなんか出来ないわけです。空っぽのボトルから水なんて出てこない」

 

孤独を避けるのではなく、孤独であること受け入れれば受け入れるほど、人は正直になれると思います。

 

そして、正直になればなるほど、自分はどうしたいのか、どういう人間として生きたいのか、自分の命をどう使いたいのか、という問いに対する自分の答えが、より鮮明になってくるように思います。

 

それがおそらくビジョンと呼ばれるものであり、それは本来、理屈ではなく、自分の内側にある動物的な衝動から湧き出てくるものだと思います。

 

そして、そういった内側にある純粋なもの、ビジョンと呼ばれるものを具現化するために、外側に表現していくことがリーダーシップという営みなのだと思います。

 

そのように考えると、本来はあるべきリーダーシップなど存在せず、あるとすれば、それは自分のリーダーシップを響かせること以外ないのだと思います。

 

外側の世界に合わせて内側の世界を殺す必要などない、自分の内側の世界を外側の世界にどう表現するか、それが全て。

 

そう捉えたとき、皆さんの中には今、何があるのでしょうか。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

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